重ね合わせの猫

第1章:吾輩

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いつるつるした床の上でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰(どう)悪な種族であったそうだ。

この書生というのは時々、我々を捕つかまえて煮にて食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌てのひらに載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。

吾輩が住むこの場所は、少々妙な場所である。妙な場所というのは、後からこの部屋に来た仲間が言っていたのを聞いただけで、吾輩は生まれてこのかた、この場所でしか過ごしていない。そのため、妙だとも感じたことは一度ともない。

書生どもは白い服を着て、何やら紙に書き物をしている。部屋の隅には、奇妙な形のガラス瓶や金属の棒が並び、時折、チリチリと音を立てる小さな箱もある。壁には紙が貼られ、黒い線や数字がびっしりと書かれているが、吾輩にはその意味がわからぬ。あるいは、単に変わった趣味の家なのかもしれぬ。書生どもの住処には、こうした奇妙な飾り付けをする輩もいるらしいからだ。

第2章:籠

吾輩は小さな籠の中で暮らしている。籠の中は、やや窮屈だが、文句を言うほどでもない。仲間が言うには、部屋を出ると太陽というものが辺りを照らし、それは何とも明るいようだが、吾輩は暗い方が好みである。取り分け、その世界を見てみたいとも思わぬ。

書生どもの一人が毎日、餌をくれる。魚の欠片や、妙に固い粒々だ。味は悪くない。だが、彼らの動きは忙しなく、まるで何か大事なものを追いかけているようで滑稽だ。吾輩はただ、籠の縁に顎を乗せ、彼らの愚かしさを観察するのみである。

この部屋には何匹かの仲間がいる。だが、彼らの名を知ることもなく、また知りたいとも思わない。吾輩と彼らは、ただ同じ空間で今日という日を過ごしているだけだ。ある時、隣の籠にいる一匹が口を開いた。「知っているか。部屋の外には太陽という、ひどく明るい球が浮かんでいるらしいぞ。」他の仲間からすでに聞いたことのある話だ。吾輩は特に反応もせず、だからどうした、という気分で黙っていた。だがその仲間は、さらに言葉を続けた。「小生はぜひその世界を見てみたいのだ。」それきり会話は途切れた。吾輩には明るい場所など好ましくない。そんな世界に興味をそそられることも、特別な思い入れをもつこともない。

数日後、その仲間は書生の一人に連れ出され、部屋を去った。そして二度と戻ることはなかった。おそらく、外の世界とやらを目にすることができたのだろう。奴とは物心ついた頃からこの部屋で共に過ごしてきた。奴にとっては幸せな旅出だったのだろう。だが、吾輩はこの部屋での時間が気に入っている。この暗がりで、ただ静かに日々を送るだけで十分なのだ。

第3章:暗闇

ある日、書生どもの一人が吾輩を籠から出し、別の部屋へ連れて行った。吾輩もついに、その太陽とやらを拝む時がきたのかと身構えたがそうではなかった。そこには、今まで見たことのない小さな箱が置かれていた。蓋付きの、四角い、簡素な箱だ。その中は見えぬ。吾輩は、書生どもが新しい住処を用意してくれたのだと、少しばかり期待した。書生の1人がその箱の蓋を開け、吾輩をその中に入れると、「これでよし」とでも言うように蓋を閉めた。

ところが、この新しい住処はどうにも気に入らぬ。まず、暗い。吾輩は暗いところが好みではあるが、四面を全て壁で覆われ、蓋を閉められると光が全く入ってこない。吾輩は目を凝らして辺りを見たが、何も見えぬ。ただの暗闇だ。せめて灯りぐらい付けてくれればよいものを、と吾輩は不満を垂れた。書生どもの考えることは、さっぱりわからぬ。この狭さと暗さに耐えきれず、吾輩は爪で壁を引っ掻いてみたが、無駄な抵抗であった。足に何かが当たったが、それが何かは分からぬ。仕方なく、身体を丸めてじっとしているしかなかった。

どれほどの時が経ったのか、吾輩には知る由もない。暗闇の中で、ただじっとしているうちに、妙な感覚が吾輩を襲った。身体が、なんというか、軽くなったような気がするのだ。いや、軽いのか重いのか、それすら定かでない。吾輩は自分の毛皮を爪で触ってみたが、その感触が曖昧で、まるで夢の中のような心地であった。

ふと目を凝らすと、自分の身体が青白く光っているように見えた。ほのかな輝きが、暗闇の中で揺れている。驚きつつも、吾輩はその光を眺めた。身体がふわりと浮かぶような感覚がし、向こうの方にぼんやりとした風景が見える気がした。そこには、庭の木々よりも柔らかく、暖かい光に満ちた場所が広がっている。楽園とでも呼ぶべきか、吾輩にはわからぬが、なぜか心が惹かれるような景色であった。

吾輩は、この感覚に戸惑いを覚えつつも、どこか愉快な気分になっていた。ウホホーイ、とでも言いたくなるような、奇妙な高揚感である。吾輩はここにいるのか、いないのか。それとも別のどこかに漂っているのか。頭の中がぐるぐると回り、まるで自分の尻尾を追いかけるような気分だ。だが、不思議と怖くはなかった。ただ、この不確かな感覚に身を任せ、漂うままにしていると、妙な安らぎさえ感じた。生きているのか、死んでいるのか、そんな状態が奇妙に重なり合っているような、そんな不思議な感覚である。

第4章:太平

その時、突然、暗闇の中に光が差し込んできた。蓋が開いたのだ。眩しい光が吾輩の目を刺し、思わず顔を背けた。青白い光も、楽園のような風景も、瞬く間に消え去り、身体に感じていた不思議な軽さもなくなった。全てが、蓋が開かれたその一瞬で収束したかのようだった。

光が眩しい。少し目を閉じよう。吾輩はそう思い、まぶたを下ろした。書生どもの声が聞こえるが、何を言っているのかはわからぬ。吾輩はただ、元の世界に戻ってきたことを感じていた。いや、戻ってきたのかどうか、それすら定かではない。だが、今はそんなことを考える気力もない。光の中で、吾輩は静かに目を閉じた。

現実なのだか夢の中なのだか見当がつかない。まだ箱の中にいるのだか、もう籠に戻ったのだか、それも判然としない。どこにどうしていても差支つかえはない。ただただ、楽である。否、楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。