残桜の剣士

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第1章:曇天の花影

江戸末期、この時代の空には、重く垂れ込めた雲が常に付きまとっているようだった。幕府の権威は日に日に衰え、諸藩は己の領地と勢力を守るため、互いに牽制し、時には刃を交える。そんな不安定な時代に、佐々木源蔵は生きていた。

源蔵は村道場に通う16歳、その性格は不真面目の一言に尽きる。嫌なことからはすぐさま逃げ出し、特に剣術の鍛錬となると、ありとあらゆる口実を弄して稽古を怠った。朝稽古の時間には体調不良を訴え、夕稽古には急な所用をでっち上げてサボるのが常だった。そんな彼を見て、周囲の者は呆れ顔を隠そうともしなかった。

父親は農民と武士を兼業する男だった。無論、剣の腕が立つわけでもない。それでも、息子の源蔵に、日課のように剣の稽古をつけていた時期があった。木刀を手に、ぎこちない構えで打ち込む父親の姿は、傍から見れば滑稽ですらあった。

「源蔵、もっと腰を落とせ! わしのような立派な剣士になるためには、基本が肝心だ!」

父親は事あるごとにそう口にした。しかし、源蔵は父親がただの雇われ下級武士であることを知っていた。幼い頃から、父親が領主の前で腰を低くし、頭を下げる姿を何度も見てきた。立派な剣士、などではない。所詮は、食い扶持(ぶち)のために頭を下げ続ける男なのだ。

父親の言葉を聞くたびに、源蔵の胸には反発心が湧き上がった。剣の鍛錬など、何の役にも立たない。どうせ自分も、父親と同じように、誰かの言いなりになって生きるしかないのだ。そんな諦めにも似た感情が、剣に対する嫌悪感をさらに強くしていた。

第2章:風鳴りの兆し

剣術嫌いの源蔵が道場へ通い始めたのは、ある友人がきっかけだった。その友とは、同じ道場に通う藤堂新八である。常に真面目な顔つきで剣術の鍛錬に励む新八は、まさに模範的な剣士そのものだった。その剣技は目を見張るほどで、道場内でも一目置かれる存在だった。

ある日の昼、道場の裏山でのことだった。新八は、どうしても会得できない剣技の稽古に没頭していた。それは「疾風一閃(はやていっせん)」と呼ばれる難易度の高い技で、独特の手の返しによって相手の虚を突き、眉間を正確に打ち抜くものだ。「この手の返しが、どうにも上手くいかぬ…」新八は独り言をつぶやきながら、巻藁(まきわら)に向かって何度も木刀を振るっていた。

そこへ、父親の稽古から逃げてきた源蔵が、ふらりと姿を現した。「何をしているのだ?」草むらから顔を出した源蔵が気のない声で尋ねると、新八は汗をぬぐい、少し呼吸を整えて答えた。「『疾風一閃』という技の稽古だ。このように、刃先を相手の剣に沿って波のように滑らせ、相手の虚を突いて眉間を打つんだ。…だが、この刃の運びが難しくてな」と、新八は苦笑まじりに説明した。

新八がゆっくりと見せてくれた手本の動きをじっと見つめていた源蔵は、「少し、儂にもやらせてくれぬか?」と尋ねた。新八は一瞬戸惑ったものの、「まあ、私も小休止にしよう。その間に試してみればいい」と木刀を手渡した。源蔵は木刀を受け取り、新八の構えを真似てみた。その瞬間、新八は剣先からほとばしる並々ならぬ覇気を感じ取った。「こうかなっ!」源蔵が呟きながら木刀を振るうと、鋭い風切り音が辺りに響き渡り、その風圧で新八の髪がわずかに揺れた。技を終えた瞬間、木刀は巻藁に突き刺さっていた。ちょうど人の顔の眉間に当たる位置だった。

一瞬の沈黙が流れた後、新八は目を丸くした。源蔵は、新八が長らく苦戦していた「疾風一閃」を、いとも簡単にやってのけたのだ。「き、貴様、剣の稽古をつけているのかっ?」新八が驚きを隠せずに尋ねると、源蔵は気まずそうに目を逸らし、「えっと、親父が兼業武士で、まあ、少しだけな」と曖昧に答えた。

新八は、源蔵の内に秘められた才能を見抜いた。「名は何という!? 私の通う道場へ来い! お前には才能がある!」と熱心に誘った。源蔵は、父親から剣の稽古を押し付けられるのを疎ましく思っていたこともあり、道場に入れば少しは解放されるかもしれないと考え、渋々ながらも承諾した。こうして、源蔵は父親からの稽古を逃れ、新八と共に道場へ通うこととなった。

第3章:雷鳴の狭間

しかし、道場に入ってからも、源蔵は真面目に鍛錬に励むことはなかった。師範に叱責され、稽古を途中で抜け出しては、裏山に隠れて時間を過ごす日々を送っていた。

ある日のこと、源蔵はいつものように剣術の鍛錬を抜け出し、道場の裏山で居眠りをしていた。木漏れ日が心地よく、微睡みの中で彼は、憂鬱な現実から逃避していた。

そんな源蔵の怠惰な態度に、ついに師範も堪忍袋の緒が切れた。「いったい何度目だ!!新八!!源蔵を探し出して連れ戻せぇ!」師範は、新八に厳しい口調で命じた。新八は、源蔵の不真面目さには辟易(へきえき)していたものの、自分が道場へ誘った友人を見捨てることはできなかった。

「承知いたしました」

新八は渋々ながらも、源蔵を探しに出かけることにした。道場を後にし、裏山へと続く道を足早に進む。

新八が裏山を捜索し、ようやく木の上で遠くを眺める源蔵を見つけ出した。

「源蔵!そんなところにいたのか、師範がカンカンだぞ!」

源蔵が声をかけたその時、源蔵の見つめる先から戦の気配が漂ってきた。大地を震わせるような鬨の声、金属がぶつかり合う耳をつんざく音、そして、男たちの怒号。隣藩との間で争いが勃発したのだ。

「この山の向こうは藩境だ。近頃、殿と隣藩の領主との関係が芳しくないから、この辺りで小競り合いが頻発しているのだ」新八は、冷静に情勢を分析し、源蔵に説明した。

「巻き込まれれば、命はない。さあ、帰るぞ!」新八は源蔵にそう促した。しかし、源蔵はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、「行ってみよう」と、木を降りて戦の音がする方へ走り出した。「おいっ、源蔵、やめろ!」新八は慌てて源蔵を追いかけた。

第4章:刃嵐の試練

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二人は、草木を掻き分け、戦の現場へと近づいていく。そして、まさに戦いが行われている広場のすぐ横の草むらに隠れて、戦場の様子を窺い見た源蔵は、興奮した様子で呟いた。「うわあ、本物の戦など、初めて見た」

しかし、後を追ってきた新八は、怒りを露(あら)わにした。「帰ると言ったはずだ!死にたいのか!」武士たちに気づかれぬよう、声をひそめてはいたが、その声音には明らかな怒気が込められていた。源蔵は、その剣幕に気圧され、冷静さを取り戻した。

「そ、そうだな…帰ろう…」

そう言いかけた時だった。激しい音と共に、武士の折れた刀が二人のいる方向へ飛んできた。それは、源蔵のすぐ横の木に突き刺さった。源蔵は驚きのあまり、「うわあ!」と大声を上げて、草むらから飛び出してしまった。

その時、源蔵の視界に、一人の武士が飛び込んできた。その男は、たった今、敵の武士を斬り倒したばかりなのだろう。大量の返り血と、獣のような形相で、荒い息遣いを漏らし、目は血走っていた。男は、源蔵の姿を捉えると、獲物を定めるかのように、凄まじい勢いで走り出した。

「グルゥウラァアあア!!」男は獣のような咆哮を上げ、源蔵に向けて刀を振りかぶった。

その武士は、もはや敵味方の区別もつかないほど、興奮状態に陥っていた。ただ目の前にいる人間を、斬り殺すことしか考えられない。

しかし、源蔵は恐怖のあまり、腰が抜けてその場にへたり込んでしまった。目の前には、鬼の牙のような刀が、容赦なく迫ってくる。

「い、いやだ…逃げ…動かない…無理だ…死ぬ…生きたい…いや、死ぬ…死ぬ…死ぬ…」源蔵の頭の中は、恐怖で真っ白になっていた。

その刹那、新八が草むらから飛び出した。そして、先ほど飛んできた折れた刀の柄を手に、渾身の力を込めて武士の顎を目掛けて強烈な一撃を叩き込んだ。新八の伸びきった左足が、地面にめり込み、その一撃の凄まじい威力を物語っていた。

「ウグゥ…」武士は、うめき声を上げながら、よろめいた。新八は、地面にへたり込んだまま動けない源蔵を怒鳴りつけた。「源蔵!逃げるぞ!」

しかし、源蔵はまだ放心状態のままだった。新八は、やむを得ず、源蔵の顔を力任せに引っ叩いた。その衝撃で、ようやく源蔵は我に返った。新八は、源蔵の手を掴み、必死の形相で走り出した。普段は冷静沈着な新八の手も、恐怖のあまり小刻みに震えていた。新八のもう片方の手には、先ほどの折れた刀が握りしめられている。

二人は、足場の悪い雑木林へと逃げ込んだ。地面は雨でぬかるみ、木の根や岩がゴロゴロと転がっている。走るたびに足を取られそうになり、バランスを崩しそうになる。源蔵は息を切らし、何度も転びそうになりながら、新八に引っ張られるように進んだ。しかし、先程の武士が、獣のような叫び声を上げながら、すぐ後ろまで迫ってきていた。

新八は源蔵を守るため、その折れた刀で追手を迎え撃つことにした。武士が新八に斬りかかると、新八は咄嗟に折れた刀でその一撃を受け止めた。しかし、折れた刀では武士の猛攻を防ぎきれず、その勢いで体勢を崩してしまう。

次の瞬間、武士の刀が新八の左腕を浅く斬りつけ、鮮血が噴き出した。「新八!」源蔵が悲痛な叫び声を上げる。しかし、新八は痛みを堪えながら、「気にするな!走れ!」と源蔵を一喝した。

武士は、ゆっくりと倒れた新八に近づき、刀を振り上げた。もうこれまでか、と新八も覚悟を決めたその時、一本の矢が武士の兜に命中した。武士は、驚いて矢の飛んできた方向を見た。そこには、二人の敵の武士が、こちらに向けて弓を構えていた。追い打ちをかけるように、さらに矢が放たれる。新八に止めを刺すどころではなくなった武士は、身を屈めて矢を凌いだ。そして、怒りの叫び声を上げながら、矢を放った敵の方へ向かって走っていった。

第5章:静寂の残響

一部始終を草むらに隠れて見ていた源蔵は、咄嗟に新八を庇いに行き、二人で再び走り出した。

二人は、雑木林の奥深へと、ひたすら逃げ込んだ。木々の間を縫うように走り、息を切らしながらも、必死に足を動かし続けた。そして、ようやく追手を振り切った二人は、大きな岩の陰に身を隠した。息を切らし、汗と血にまみれた新八は、それでも源蔵を守り切ったことに安堵の表情を浮かべた。

ようやく安全な場所まで逃げ切った二人は、大きな岩の陰に身を寄せ、肩で息をしながら顔を見合わせた。新八は、左腕の傷口を抑えつつ、源蔵に「お前、しっかりしろよ」と、いつものように明るく笑いかけた。源蔵も、張り詰めていた緊張が解け、わずかに笑みがこぼれた。

新八が「さあ、戻ろうか…」と言いかけた、その瞬間。

源蔵の時間は、まるで止まってしまったかのようだった。鈍い音が、静寂を切り裂いた。直後、新八のこめかみに、漆黒の矢が深々と突き刺さった。

木々の葉はざわめき、空は茜色に染まり始める。風が吹き抜け、草木は物悲しげに揺れる。まるで、この世の終わりを告げるかのように。

新八は、先程まで見せていた穏やかな笑顔を浮かべたまま、何も言わずに、その場に崩れ落ちた。即死だった。

源蔵は呆然と立ち尽くした。友の突然の死を目の当たりにし、頭の中は真っ白になっていた。矢が飛んできた方向に目をやると、手負いの武士がよろめきながら弓を構えているのが見えた。先ほど自分たちを襲った敵武士の一人だ。その敵武士は弓を下ろし、こちらへ近づいてくる。だが次の瞬間、背後から別の武士に斬りつけられ、血飛沫を散らしながら地面に崩れ落ちた。それは源蔵たちを追い詰めたあの武士だった。おそらくもう一人の敵はすでに仕留めていたのだろう。その武士は意味不明な叫び声を上げながら、倒れた敵の体を何度も刀で突き刺した。もはや目の前の獲物以外、何も見えていないようだった。

とどめを刺し終えたその武士は、源蔵たちには気付かず、戦の広場がある森の奥へと消えていたった。

徐々に日も暮れ始め、戦の騒音も静かになり、虫の声だけが響く。この雑木林で、源蔵はたった一人、取り残された。新八の亡骸を前に、ただ茫然とへたり尽くすことしかできない。日は傾き始め、薄暗くなってきたが、源蔵の足は未だガクガクと震え、心は恐怖と後悔の念で押し潰されそうだった。

第6章:灰中の焔

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数日後の深夜、道場の稽古部屋。源蔵は、神棚の前で正座し、静かに目を閉じていた。

その顔には、大きな痣がいくつもできていた。新八を死なせてしまった責任を問われ、村人たちから殴られたのだ。しかし、源蔵は痛みを感じなかった。その時、彼の心を占めていたのは、新八を死なせてしまったという、底知れない罪悪感だけだった。

周囲は静寂に包まれ、ただ彼の荒々しい呼吸音だけが、重く響き渡る。源蔵の心の中では、様々な思いが渦巻いていた。

今まで、儂は何のために生きてきたのだろうか?
新八は、儂を守って死んだ。
儂はいつも逃げてばかりだった…
儂の怠惰が、友をあのような目に遭わせてしまったのか?
儂は、どうなりたいのだ?これから、どう生きていくべきなの
剣の道とは、、武士とは、、一体何なのだろうか?

言葉を発することもなく、源蔵はただひたすら、自問自答を繰り返した。新八の笑顔、戦場での彼の勇敢な姿、そして、最期の瞬間…。それらの光景が、走馬灯のように脳裏をよぎる。

長い沈黙が続き、やがて辺りが白み始めた頃、源蔵はゆっくりと目を開いた。その瞳には、もはや、かつての逃げ癖のある侍の面影はなかった。そこには、深い決意と、揺るぎない覚悟が宿っていた。

第7章:暁の剣路

3年後、源蔵は荷物をまとめ、道場に別れを告げる準備をしていた。彼は、粗末な旅装束に身を包み、刀を腰に差している。道場の師範が、源蔵の前に立ち、その成長した姿を静かに見つめていた。

源蔵は、師範に向き合い、落ち着いた声で言った。

「師範、儂は、己の剣道を求める旅に出ます。新八の分まで、立派な剣士になってみせます。これまでご指導いただいたこと、決して忘れません」

師範は、何も言わず、ただ静かに頷いた。その眼差しには、源蔵に対する信頼と、未来への期待が込められていた。源蔵は、深々と頭を下げ、師範に一礼した。そして、道場の中をゆっくりと歩き、門へと向かった。腰には、新八が愛用していた木刀の鍔(つば)が、御守り代わりに結び付けられていた。

道場の門を出た源蔵は、一度も振り返ることなく、歩き出した。朝日が昇り、空は雲一つない青空に広がっている。風が、彼の髪を揺らし、旅装束の裾をなびかせた。その背中は、かつての体たらくな侍ではなく、決意に満ちた剣士の姿だった。

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